須古タイ捨流

この須古にタイ捨流が伝えられたのは、やはり武雄の木島タイ捨流であって、その初見は古く寛永二年(1624年)である。

〈吉田一閑の祠(白石町)〉

白石町須古の馬洗に一人の剣の達人を祭った祠(ほこら)がある。「吉田千左衛門常知□一閑神位」と刻まれ、江戸の中後期に建てられたといわれている。

昔、須古鍋島に仕えた吉田一閑というタイ捨流剣術の達人がいた。

風聞を聞いた一人の剣術使いが他流試合を申し込もうと、一閑のもとを訪れた。一閑は老婆の姿に化け、「きょうは、一閑どんはおらんよ」と言い、その剣術使いの目前で、そこらに飛び回るハエを次々に火ばしでつまみ、いろりにくべた。

それを見た剣術使いは、「婆さんがこれほどならば、一閑さんはよほどの使い手に違いない」と逃げ帰ったという話が今も伝わっている。

吉田一閑の生い立ちと経歴は詳しく分からないが、須古馬洗の妻山社北平に住んでいたことが分かっている。延宝から元禄(十七世紀後半)にかけては近郷に知れ渡る使い手だった。

今でも毎年一月十五日には、吉田一閑ゆかりの人たちがお祭りを行い、その剣徳を語り継いでいる。

※2000年9月28日(佐賀新聞「杵藤特集」より抜粋