片岡タイ捨流

佐賀県の岩屋山の山伏であった伝林坊頼慶に、一人の伝承者(門弟)があった。それは山伏ではなく「片岡タイ捨流」という武家の系譜である。同じタイ捨流でありながら、肥前に弘流した肥前タイ捨流とはやや異質のものであり、これが九州以外の地に伝えられたのも、伝林坊の流浪生活によるものであろう。

片岡タイ捨流は京畿で幕末まで続いたと言われるが、その道統系譜は次のようになっている。

丸目蔵人-岩屋山伝林坊頼慶-永田儀左衛門是正-樅木伊左衛門定治-溝口十左衛門常賢-赤坂長太永治-片岡源之丞喜正・・・

すなわち江戸時代の中期に、片岡喜正によって再興されたタイ捨流の流祖に準ずるものとして、伝林坊の名を残すものだけである。

伝林坊 頼慶 (でんりんぼう よりのぶ)

片岡タイ捨二代目、中国武術家、忍術家、兵学者、医術家、造船家

長崎に於て小田六右衛門に敗れ、徹斎の門人となり、兵法タイ捨流に中国武術を取り込んだ。徹斎晩年迠切原野に於て代稽古及び忍法指導の総帥也

また、水軍の指導、有瀬外記を助け、計石に残る中国ジャク式のうたせ船など此也。

徹斎死後六年目、永田儀左衛門盛昌に印可を渡す。その後岩尾山之修験者と也、全国を巡國し、全国の修験者及び山窩一族の支柱となり、忍者軍團の組織を確立、柳生一門及び甲賀・伊賀を牽制し、裏タイ捨の指揮系統を樹立し幕末迠続く。

肥前に残る伝書の絵は、中国系の伝林坊頼慶の絵の系統と思われる。

また伝林坊の墓は、丸目蔵人の墓に隣接して設置されていることからも、タイ捨流の中でいかに重要な存在だったかがわかる。