兵法タイ捨流(ひょうほうタイしゃりゅう)は、丸目長恵によって創始された兵法。
丸目長恵(蔵人佐)は、肥後(熊本県)南部を領していた相良氏の家臣である。上京し、新陰流を創始した上泉伊勢守秀綱の弟子となり、将軍足利義輝の前での演武で秀綱の打太刀を勤めている。永禄10年(1567年)秀綱より、上泉伊勢守信綱の名で印可状を受けている。
その後、新陰流を九州一円に広めたあと、独自の工夫により「兵法タイ捨流」を開流した。
九州一円に広まり、江戸時代には、人吉藩、佐賀藩で盛んに行われた。
「タイ」と仮名で書くのは、「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つを捨てるにとどまり、「太」とすれば自性に至るということにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、字によって意味を限定してしまうので、仮名で「タイ」と書くことで何れの意味にも通じることができるからである。
技は新陰流を基礎として、自分も生かし、相手も生かす「活殺剣法」で、形の最大の特徴は、右半開に始まって左半開に終わり、すべて袈裟斬りに終結する独特の構えにある。宗家の家紋である九曜の型による円の太刀、飛掛り飛廻って相手を撹乱して打つ技、刀と蹴技・眼潰を組み合わせた技等々、実践剣法を現在に伝えている。
鹿児島藩の示現流、福岡藩で盛んだった安倍立、今治藩や広島藩の真貫流もタイ捨流を学んだ流祖によって創流されている。宮崎県西臼杵郡五ケ瀬町に伝わる棒の手の心影無雙太車流の元流派ともいわれている。