肥前タイ捨流

タイ捨流でも「肥前タイ捨流」と言われる大きな系譜が佐嘉に伝えられている。これは西肥前(武雄)の木島派とともに二本柱を形づくり、肥前武士の背骨づくりに役立っている。

丸目蔵人が肥前を訪れて、武雄の木島藤左衛門と刑右衛門親子に、佐嘉では松平入道雪窓と遠藤小弥太に印可してから、急速な流布がみられている。少なくとも元和以前、慶長年間(一六一〇直後)のことである。

佐嘉でのタイ捨流系譜は、松平雪窓から中野神右衛門に伝えられ、以後、中野一族とその関係者によって相伝され、鍋島本藩に根を張ることになるが、タイ捨流は新陰流の分派であるため、のちに江戸から新陰流-柳生家新陰流が導入されると、この両派には面倒な関わりができてしまっている。

これにより、武将クラスは馬術と太刀、中級武士は剣と槍、軽輩武士は柔術と杖術といったように、修行の重点も異なり、しかも同種の武術でも流派が階層化してしまった。

すなわち剣術では、タイ捨流は軽輩武士から中級武士層に、柳生家新陰流は上級武士のものとして、その上位的格式をとった。

タイ捨流はこのような武士階層にもまれて、後には太く短い撓で思い切って強打する剣法になっている。これは中野一族の無骨さも手伝って、肥前武士の嗜好に一致した結果とみてよいだろう。

もともと肥前の佐嘉藩は、外からの刺載に独自の拒否反応を示す国柄である。これには負けず嫌いとか痩せ我慢根性が作用するようにも思われるが、それでも、ここのタイ捨流だけは他の流派に先駆けて受け入れ、やがて「肥前タイ捨流」と賞揚されるようになった。

丸目蔵人の人柄か、タイ捨流の内容が佐嘉の土壌にマッチしたのか、とにかく近世初期の肥前の偉観であることはまちがいない。