木島タイ捨流

丸目蔵人佐徹斎の肥前歴訪は、その晩年すなわち慶長、元和の頃(一六〇〇年~一六二〇年)とみてよい。下記の者が徹斎から直接指導を受けた。

  • 木島藤左衛門(武雄)
  • 木島刑右衛門(武雄)
  • 松平入道雪窓(佐嘉鍋島一族)
  • 遠藤小弥太
  • 竹下左近将藍(佐嘉鍋島家中)

丸目家に残る直伝免許之衆における肥前のタイ捨流門人である。

これらの肥前タイ捨流相伝の者は、その毛並みも識見もよかったので、木島両名は西肥前(佐賀県西部と長崎県北半)に名声を高くし、肥前タイ捨流の始祖とされるようになり、松平雪窓は佐嘉方面の弘流の元を作った。

有馬之戦役死者慰霊碑(武雄市富岡・円応寺)

有馬の戦役とは、寛永14年(1637)に勃発した島原の乱のことで、その鎮圧に武雄から2300余名が出征し、56名が戦死しています。碑面にはその建立の経緯と物頭木嶋形右衛門・岡部茂右衛門をはじめとする53人の戦死者の名が刻まれています。
 島原の乱は、島原藩と唐津藩領天草のキリシタン3万余が天草四郎を首領として叛旗を翻したもので、鎮圧にあたった幕府軍は12万4千人を数えるといいます。この戦いでの死者は、幕府軍2千余名、反乱軍は全滅とされています。